三輪運輸工業の
軌跡
日本の近代化とともに歩んできた三輪運輸工業。
130年を超える歴史と経験が、
物流の未来を切り拓いていく。
130年を超える歴史と経験が、
物流の未来を切り拓いていく。
近代日本の黎明期、
「三輪組」が誕生。
「三輪組」が誕生。
1854年(安政元年)、三輪徳太郎は兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現在の姫路市仁豊野)の農家に生まれた。日本開国と近代化への機運が高まる時代、徳太郎は「一旗あげる」という志のもと、一大貿易港として栄える神戸で港湾荷役を行う上組浜仲(現・株式会社上組)に就職。港へ輸送される貨物の水揚げや積み込み、配達、倉入れといった力仕事において、持ち前の体力と要領の良さを発揮し、港湾荷役の人夫頭に任命される。そして明治21年、徳太郎は35歳の若さで三輪運輸工業株式会社の前身となる三輪組を脇浜の地で創業した。
神戸製鋼所との深いご縁はここから。
三輪組には様々な取引先があったが、中でも洋糖引取商を行っていた鈴木商店の仕事が多く、陸上げ業務を通じて大いに貢献を果たした。明治27年、鈴木商店は創業者・鈴木岩治郎の死去に伴い、妻の鈴木よねが当主となる。その後32年から台湾樟脳の取り扱いを始めるとともに、鈴木商店は業績を急速に伸ばしていった。そして38年、鈴木商店は小林製鋼所を買収し、社名を神戸製鋼所に変更。これが大手鉄鋼メーカー神戸製鋼所の始まりである。神戸製鋼所初代支配人には、かつて鈴木商店の書生で徳太郎とも親交の深かった田宮嘉右衛門が任命された。そして鈴木よねから絶大な信頼を得ていた徳太郎は「田宮氏と神戸製鋼所を支えるように」とご用命を受けご下命を賜り、神戸製鋼所のためなら「水火も辞せず」と誠心誠意仕事に励んだ。大正7年に米騒動の嵐が全国に広がり、鈴木商店本店の焼き討ちが起こった際にも、徳太郎は小柄な田宮氏を法被の懐に隠して移動し、火が田宮邸に広がらないよう当時の防火法である味噌を家全体に塗り、難を逃れた。こうして徳太郎は公私ともに神戸製鋼所に尽くしたのである。やがて大正時代に入ると、鉄鋼をはじめ国内の各産業が躍進。神戸製鋼所は工場を続々と増設し、日本の重工業界を牽引する存在へと発展を遂げる。
徳太郎の死、
そして訪れた昭和恐慌。
そして訪れた昭和恐慌。
大正8年、三輪組では神戸製鋼所海岸工場の操業にあたり、従来からの運搬業に加え、工業部門を新設。翌9年には建設や機械解体、組み立て部門を設け、神戸製鋼所各工場の営繕業務や、機械設備の解体・新設を行うなど、業務内容を拡大していった。大正14年、創始者の徳太郎が死去。それまで個人事業だった三輪組は会社組織化され、合名会社三輪組として新たな道を歩み始める。その後、第一次世界大戦終戦による反動不況から大正9年に株価が大暴落。12年には関東大震災が発生し、日本経済に大打撃を与えた。さらに昭和2年4月18日の台湾銀行休業を皮切りにわずか3日間で37の銀行が休業し、時代は昭和恐慌へと突入する。
戦時下でも、歩みを止めず前へ。
恐慌の渦中にあっても神戸製鋼所は新たな技術や製品の開発を続け、三輪組はその挑戦を荷役運搬業で支えた。そして昭和6年の満州事変から上海事変、日中戦争の影響を受け、陸軍から神戸製鋼所への軍需品生産要請が増加。三輪組は荷役業務で寄与すべく、効率的な運送技術の開発に取り組んだ。当時の荷揚げは岸壁に着いたはしけ(貨物運搬用の小舟)から渡り板をつなぎ、人手で行っていたが、大正8年に三輪組が考案した三輪クレーンを使うことで、5トンほどの物を荷揚げできるようになり、作業能率の向上に大きく寄与した。さらなる生産増強のため、神戸製鋼所は昭和12年から名古屋(愛知)、長府(山口)、大久保(兵庫)、日高(兵庫)に新工場を開設。それに続き三輪組も長府と大久保に支店を設けた。昭和18年には軍命令による強制疎開で、本社を当時の住所(葺合区脇浜町2丁目)から神戸製鋼所本社前にあった脇浜会館へ移転。次第に戦局が悪化し昭和20年、大空襲の戦火で神戸製鋼所構内が焼き尽くされるも、従業員たちは決して作業の手を止めなかった。
ついに、三輪運輸工業株式会社が始動。
昭和20年8月15日に第二次世界大戦が終戦し、日本の産業界は物不足とインフレによる苦しい再生の道を歩み始める。神戸製鋼所は工場の復旧整理を始め、線材や琺瑯鉄器、アルゴンガスなどの製造に着手。三輪組は神戸製鋼所からの要請を受け、焼成炉の築炉・修理部門を開設した。現在でも神戸製鋼所は「線材の神戸」と呼ばれるほど線材を代表的な製品としており、この時に三輪組が始めた築炉部門は、現在も続く当社の築炉室の原点となっている。昭和21年、創始者の三輪徳太郎の遺宅を改築し、本社事務所を疎開先の脇浜会館から移転。23年には職業安定法発令に伴い、三輪運輸工業株式会社に改組し、社名を変更した。しかし24年から25年、戦後不況の煽りを受け、三輪運輸工業は会社の存続が危ぶまれるほどの経営難に直面。賃金の遅配や欠配が続き、会社と労働組合の団体交渉がひっきりなしに行われるようになる。官庁や企業のほとんどに赤旗が並び、ストが続発していた中、26年に日本経済が回復の兆しを見せるまで三輪運輸工業も労使ともに苦しい道のりを歩み続けたのであった。
復興、そして大きな成長。
昭和24年ボルト工場を新設し、鋲螺の製造販売を開始。三輪運輸工業は新技術の開発や機械の導入に挑み、着実に業績を伸ばしていく。特に世間からの注目を集めたのが、昭和32年に始まった神戸製鋼所高炉建設に伴う灘浜地区の埋め立て工事である。神戸製鋼所の社運を賭けたこの一大事業に、三輪運輸工業は協力会社として全社を挙げて取り組んだ。六甲山系の丸山から土砂を採取し、ダンプカーで運ぶという壮大な計画は新聞でも話題となり、のちのポートアイランドや六甲アイランドといった人工島形成の原型になったといわれている。さらに昭和33年、神戸製鋼所と協力会社数社によるパキスタンでの肥料工場建設がスタート。二国の関係を築く壮大な事業であったものの、政局の不安定な異国へ渡るということもあり、参加に二の足を踏む会社も多かった。様々な困難が予想される中、当時の社長は自ら現地へ乗り込み、当社作業員22名を指揮。結果この事業は大きな成功を果たし、日本の重化学工業界の技術の高さが世界に認知されたのである。これを機に三輪運輸工業は海外での作業も展開し、産業界においてさらなる飛躍を見せた。やがて昭和35年には脇浜工場(通称・第1工場)を、翌36年には茨木支店を開設し、同時に高砂工場を完成させた。同年、さらに新築4階建ての本社ビルが落成を迎える。
神戸製鋼所最大の製鉄所、
加古川製鉄所が稼働。
昭和40年代に入ると、日本経済は「いざなぎ景気」と言われるほどの高度成長期を迎えた。昭和43年神戸製鋼所加古川工場が稼働し、45年には銑鉄一貫工場の加古川製鉄所として本格的に始動。同年、三輪運輸工業が始めたのが、加古川製鉄所内で発生する産業廃棄物・塵芥類回収システムの開発である。各製鉄所やアメリカへの視察・調査を重ね、47年には省力化回収・運搬システム(コンテナシステム)を開発。様々な事業所で採用され、産業廃棄物のほか、一般廃棄物、塵芥処理にも幅広く活用されることとなる。51年には画期的なフローミックシステムを開発し、システムそのものの販売事業も手がけた。
革新的な産業車両で、
物流の常識を塗り替える。
物流の常識を塗り替える。
昭和50年、播磨工場の操業を開始。53年、加古川製鉄所における構内総合運搬システムの将来構想として、スウェーデンのMTAB社(現在のキルナトラック社)から、キルナ・コンビ・トラックを導入。「ダンプカー、フォークリフト、トレーラーの長所を組み合わせた重量物運搬車である。」と、物流業界に大きな衝撃を与えた。のちの56年にはキルナ・コンビ・トレーラーを導入。この組み合わせにより構内運搬作業の省力化・合理化に大きく貢献し、画期的とも言える構内物流システムを確立した。56年、MTAB社とキルナ・コンビ・トラックの技術援助契約を結び、播磨工場で製造を開始。58年の全長2,200mの九州縦貫自動車道(金剛山トンネル)工事では、業界から高い評価を獲得した。これを機に、三輪運輸工業は輸送中心の事業形態から、ユーザー目線での製造・販売をハード面・ソフト面ともに行うことで、事業の幅を広げていく。
戦略的な経営合理化で、
第2次オイルショックを克服。
第2次オイルショックを克服。
昭和54年から原油価格の度重なる値上げ攻勢により、日本の経済は先行き不安の状態に陥った。神戸製鋼所は、省石油による生産コストの低減や各部門の合理化による経費削減に努めながら、加古川製鉄所への重点生産体制を目指した。それに伴い、三輪運輸工業も55年から高砂支店、大久保支店を出張所に縮小し、加古川支店に集約。次いで茨木支店も出張所として神戸支店に所属させるなど、組織の集約化・効率化に取り組んだ。この徹底した経営合理化と従業員の質的向上によって、第2次オイルショック下でも神戸製鋼所の当時の過去最高利益達成を支えたのである。
数々の困難を乗り越え、
培った企業力とともに未来へ。
平成7年1月17日に起こった阪神大震災では、本社が倒壊。神戸製鋼所も本社倒壊のほか、神戸製鉄所(現・神戸線条工場)第3号高炉の緊急停止、加古川・神戸両製鉄所の岸壁破損などの甚大な被害を受け、その設備損害額は約595億円に及んだ。三輪運輸工業をはじめ協力会社は、昼夜を徹して神戸の街の復旧活動に取り組むとともに、一刻も早い神戸製鋼所の高炉復旧と再火入れに向けて力を尽くした。その結果、なんと2ヶ月半という奇跡的なスピードかつ無災害で高炉の再火入れにこぎつけることができたのである。そして4年後の平成11年、三輪運輸工業は倒壊した本社に代わり現在の地に新社屋を竣工。数々の大きな困難を乗り越え、企業体質の強化に尽くす姿勢が、今日の三輪運輸工業が誇る安定した企業力につながっている。明治から大正、昭和、平成、令和と、時代を生き抜くたびに進化してきた三輪運輸工業は、今後もさらなる飛躍の歴史を刻んでいく。